2007年10月16日火曜日

【40days@2007】Day8 - 神様は私を喜んでいる

「主は、ご自分の民を喜ばれる」
      ――詩篇149:4(TEV)



神様は、感情豊かなお方だと知っていましたか?
聖書を読むとき、神様は、悲しまれ、嫉妬し、喜び、
怒り、哀れみ、深く思いやられるお方だということが分かります。

どのような思いをもって神様は今あなたを見つめていらっしゃるでしょうか?
大仏のような無表情な顔をしているでしょうか?
怒っているのでしょうか?
いらいらしているでしょうか?


・・・答えのヒントは、赤ちゃんを抱くお母さんの表情を思い浮かべることです。

満面の笑みをうかべて、暖かく見守っている
お母さんやお父さんの顔がそこにあると思います。

赤ちゃんが何かをしてお母さんたちを喜ばせているのではなく、
ただそこに存在しているだけで、両親の喜びなのです。


「その愛のゆえに、神はイエス・キリストを通して、
 私たちを神の子供にしようとあらかじめ定めておられました。
 これこそ神の喜びであり、目的だったのです。」

という御言葉は、あなたが神様のために、
その喜びのために生まれてきたと教えているのです。

神様の喜びのために生まれてきたわたしたちは、
本能的に、神様につながりたいという強い思いがあります。
そしてそのためにする行動を「礼拝」といいます。

実は、礼拝とは非日常的な行為なのではなく、
食べることや息をすることと同じように、
人間にとって自然な欲求なのです。

神を礼拝の対象としないのであれば、
何かかわりとなる対象を見つけようとするのです。

この欲求があるのは、礼拝者を求めておられる
神様がおられるからなのです。
また、礼拝と聞くと、日曜日の礼拝、聖歌隊の賛美、
ワーシップなどのイメージが浮かぶかもしれません。

礼拝にはもちろんそのような側面もありますが、
聖書の言う礼拝はそれ以上のものです。


礼拝は、あるひとつの行動や儀式をこなすことではないからです。
またある人は、「礼拝はきらいだ」とか、
「あの教会の礼拝は良いけど、この教会の礼拝はつまらない」
と言うかもしれません。


これもまた、間違った考え方です。

礼拝は自分のためにするのではなく、
神様に喜んでもらうこと、

つまり、私たちを創り、喜んでくださっている
神さまに微笑んでいただくことなのです。



では、聖書の言う礼拝とはいったいどのようなことなのでしょうか?


私たちは、「絶えず神様を礼拝しなさい」と言われています。
礼拝は日曜日だけのものでもなければ、教会だけで行われるものでもないのです。


また、こうも言われます。
「あなたがたは、食べるときも、何をするときも、
 神の栄光を現すためにしなしなさい」(1コリント10:31)


礼拝とは、自分の生活の一部なのではなくて、全てなのだということです!
仕事をしているとき、友人と話しているとき、掃除をしているとき、
食事をしているとき、そして寝ているとき・・・


その全てを神様の喜びのためにするとはどういうことなのでしょうか?


その答えは、「何をするにしても、人に対するようにではなく、
主に対してするように心から行いなさい。」というように、
すべてのことを、あなたを心から喜び、愛している
主イエスのためにするように行うということです。

今、自分がやっていることを、かけがえのない神様への贈り物とし、
神様がそばにいることを意識しながらそれに打ち込むとき、
仕事も料理も掃除も礼拝となりえるのです。


だれかを好きになって、恋におちたことはありますか?

相手の姿が見えなくても、頭の中は彼・彼女のことでいっぱいになって、
自分のしていることを全部分かちあいたいと思う、あの状態です。

神様と恋に落ちて、神様の喜びのために生きていること、それが本当の礼拝なのです。



【今日のポイント】
 私は神様の喜びのために造られた


【考えてみよう】
 日常の活動のなかで、私を喜んでくれているイエス様のためにできることは何でしょうか?



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